◆「THE BEATLES AND BEYOND /
ジョン・レノン」解説 〜
▽ビデオインナーより
'64年2月ビートルズがアメリカに初めて渡った時の模様から、解散、さらにジョンが亡くなるまで、細かく彼らの歴史をたどったドキュメントフィルム。(アメリカ
ハリウッドビデオライブラリー社作)
■ドキュメンタリー構成のビデオの為、楽曲は収録されておりません。
このビデオ"JOHN LENNON・・・THE
BEATLES AND
BEYOND"は、このようなビートルズに対する関心の何度目かの急激な高まりを背景に、今や20世紀を代表するアーティストとしての座を不動のものとしたビートルズとそのビートルズのリーダーであったジョン・レノンの歩みをドキュメンタリー・タッチで描いた作品である。
ビートルズ、ジョン・レノンのドキュメンタリーやヒストリーものは、これまでにも発表されているが、このビデオの大きな特長は、ビートルズとジョン・レノンの音楽をほとんど使用せず、ニュース・フィルムや当時の映像、写真などを再構成した映像に、ナレーションをかぶせるという手法をとっていることにある。ビートルズもののビデオで音楽抜きというのは、見方によっては致命的な欠陥とも言えるが、かえってこれが冷静なカメラから見た1960年代のビートルズ現象を描き出している。前半の20分間に響きわたる「キャーキャー」という叫び声とファンの群こそが、ビートルズを歴史の表舞台にひきだし、現代文化と現代音楽を大きく変えるきっかけを作ったのである。現在ではロックスターをホテルやバーまで追う「オッカケ」は普通の現象になっているが、この「オッカケ」の元祖こそビートルマニアとよばれるファンの集団だったのである。しかもビートルズの場合は、マスコミも完全に巻き込み、その規模が何十倍、何百倍ものヒステリー状態であったことがこの映像から伝わってくる。
また、ライブ・シーンの映像でもファンの歓声でビートルズの演奏はほとんど聴こえない。「ファンの叫び声を聴くためにチケットを買ったんじゃない」という当時の音楽ファンの嘆きのエピソードが決して誇張ではなかったことがわかる。
近年、ロック・ミュージック、とりわけ歴史の深いアーチストのファンの態度は大きく変化し、昔のような「大好きならそれでいいじゃん」といったノリのファンから「ミュージック研究・レコード研究」といった、どこか学問的な臭いのするノリのファンが増えている。ボブ・ディラン、ローリング・ストーンズ、フランク・ザッパなども、そのようなファンを多く抱えているが、とりわけビートルズはその最右翼の存在である。
ビートルズの音楽を軸に描いたビートルズの歩みを「正」とすれば、このビデオはあくまでも「副」の部分を集めたものであるが、こうした新しいタイプのファンにとっては、どうしても持っていたいビートルズの非音楽映像の資料として重要なものであろう。
ここでこのビデオを構成している主なフィルム・ソースを紹介しておこう。
<キャバーン・クラブでのライブ>
ビートルズの動く姿を見ることのできる最古の映像。1962年8月22日に行われたキャバーン・クラブでのランチタイム・セッションを、マンチェスターのグラナダ・テレビが収録したもの。このビデオでは「サム・アザー・ガイ」の演奏シーンが、最後のジョンのインタビュー部分に挿入されている。
<ザ・ザートルズ・カム・トゥ・タウン>
1963年11月20日に、マンチェスターのアドウイックにあるABCシネマで行われたビートルズのコンサートを、パテ・ニュースが取材し、映画館用の短編ニュース映画にまとめたもの。ここでは演奏シーンをはじめ、バックステージの光景やファンの熱狂的な反応なども収められている。翌年に制作された映画"A
HARD DAYS
NIGHT"の日本語タイトル「ビートルズがやって来るヤァ!
ヤァ!ヤァ!」は、日本の担当者がこのフィルムと勘違いしてつけたもの。
<ホワッツ・ハプニング!>
ビートルズのアメリカ初上陸の模様を収めたドキュメンタリー・フィルム。1964年2月7日のケネディー空港到着、記者会見、セントラル・パークでの写真撮影、ニューヨークのナイトクラブで遊ぶようす、宿泊先のプラザ・ホテルでの4人の姿、ポトマック鉄道でのワシントンDCまでの列車の旅、ワシントンDCでのライブ・シーンなどが見られる。ジョンポールが落ち着いてどっしり構えているのに対して、ジョージとリンゴのはしゃぎぶりが目に付く。また、ワシントンDCでの演奏シーンでは、ジョージが好きだと発言した「ジェリー・ビーンズ」が多数投げ込まれるさまを実際に見ることができる。制作はメイセル・ブラザーズで、当時イギリス・アメリカで別々に編集され、テレビなどで放送された。
<ビートルズ・アット・シェア・スタジアム>
1965年8月15日に55,600人という当時のコンサートの動員記録を樹立した初のスタジアム・コンサート。ビートルズはニューヨークからヘリコプターに乗って世界貿易センタービルまで飛び、そこから装甲車に乗ってスタジアム入りした。ここではヘリコプター、楽屋、コンサートのようすが垣間見られる。初渡米のときには、列車の中であれほどはしゃいでいたリンゴが、シェア・スタジアムの楽屋では、けだるくタバコをふかしながらソファで横になっている。ビートルズがツアーを嫌がりはじめたのもちょうどこのころである。
<映画『ハウ・アイ・ウォン・ザ・ウォー』>
『ア・ハード・ディズ・ナイト』『ヘルプ』と同じくリチャード・レスターの監督作品。ビートルズがコンサート活動をやめたあと、ジョン・レノンが単独で出演した映画。それぞれのメンバーのソロ活動の先駆けとなった。反戦をテーマにした映画に、ジョンがトレード・マークの長髪を切ってまで出演したことで、ビートルズの進む方向は大きく変わりはじめた。
<ベッド・イン>
1969年5月26日から8日間、ジョンとヨーコは平和運動のデモンストレーションとして、モントリオールのクイーン・エリザベス・ホテルの1742号室で「ベッド・イン」というイベントを行った。2人はベッドに入ったまま記者会見に応じたり、各界の著名人と会見したりした。このビデオでは、バークリーでまさに闘争中の学生リーダーと2人が電話で対話している生々しいシーンが使われている。また、「ベッド・イン」中の6月1日にベッドに入ったまま行った「ギブ・ピース・ア・チャンス」のレコーディング・セッションのようすも一部収録されている。
<マン・オブ・ザ・ディケイド>
1960年代がまさに終わろうとしていた1969年12月30日に、イギリスのテレビITVは『マン・オブ・ザ・ディケイド』という60分番組を放送して、1960年代を代表する人物3人を特集した。その3人とは中国共産党の毛沢東、暗殺されたアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディ、そしてミュージシャンのジョン・レノンだった。ジョンの部分は20分だったがここにはティッテンハースト・パークをヨーコといっしょに散歩しながらインタビューを受けるシーンが収録されている。インタビューの内容は、イギリスのロック・シーンの黎明期について、ドラッグ、政治観などの多岐におよんでいる。
<その他>
『ア・ハード・ディズ・ナイト』予告篇、リンゴの替わりにジミー・ニコルが参加したオーストラリア公演でのインタビュー、ビートルズがMBE勲章をもらったときのニュースと記者会見、ジョンがイギリスキリスト発言を弁明するために開いた記者会見など多数。
以上が、このビデオの主なソースの紹介である。
〜解説文より一部抜粋〜
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