◆「red hot and blue 〜A BENEFIT
FOR AIDS RESEARCH AND RELIEF」解説
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●ビデオインナーより
『愛、SEX & 自由』
コール・ポーターという音楽家の存在が、この自分にとって特別に親しいものとなったのは、いつ頃のことだったろう?
ずうっと昔からだったような気もするし、意外とごく最近になってからのような気もする・・・「ビギン・ザ・ビギン」や「夜も昼も」の作者としてのポーターは、しかし、ジョージ・ガーシュウインやアーヴィング・バーリンなどと並ぶアメリカン・ミュージックの巨匠のひとりという印象が強かったから、親近感という点でははるかに遠い存在だったというべきであろう。
そこで記憶の糸を逆にたぐり寄せてみると、20年余り前に日本でも公開されたある映画のことが思い浮かんできた・・・。『真夜中のパーティ』というゲイ男たちのドラマを描いた作品である。
そのオープニング・シークエンスで流れてくる歌がポーターの「エニシング・ゴーズ」で、演奏はハーパス・ビザールというグループのものだった、ファッション・マガジンの名前をパロディにしたグループの演奏にいかにもふさわしく、その「エニシング・ゴーズ」は軽妙で洒落ていて、ノスタルジックなようでいてモダンで、ゲイに特有のキャムプ感覚にあふれる楽しいものだつた。
コール・ポーターがとても身近に感じられるようになったのである。
それからこれはごく最近になってからのことなのだが、ヴィデオになるのを待ち兼ねるようにして『キス・ミー・ケイト』を見た。そして「ソー・イン・ラヴ」という歌に心を奪われてしまったのである。
『レッド・ホット・アンド・ブルー』のCDを一足先にしたとき、とりあえずこの我が最愛のポーター・ソングが選曲から洩れていないことに安心した。k.d.ラングというシンガーには馴染みがなかったが、切々たる歌声には充分の説得力があって、満足した。
そして・・・いまパーシー・アドロンが演出したk.d.ラングのモノローグ・ドラマとも申すべき映像を眺めて、安心と満足とは大きな感動に変わってしまった。
狂しいほどの愛を訴えかける「ソー・イン・ラヴ」がここでは、ラングとアドロンによって哀切きわまりないドラマとして展開されていく・・・ひとり黙々と洗濯している主人公のラングが、抑えきれぬようにして頬ずりする恋人のランジェリー!
彼女が愛する女性のその下着を念入りに消毒されたものであり、エイズの犠牲者であることが暗示されて・・・「ソー・イン・ラヴ」を大胆にレズビアン・ラヴ・ソングへと歌い変えたラング&アドロンを筆頭に、この『レッド・ホット・アンド・ブルー』には黒人と白人の若者が激しく愛を交わす様を彷彿させるジミー・ソマーヴィルとスティーヴ・マックリーンの「フロム・ジス・モーメント・オン」、あるいは男同士、女同士のカップルが踊る姿を挿入したシンニード・オコーナーとジョン・メイバリーの「ユー・ドゥ・サムシング・トゥ・ミー」の如くホモセクシュアルを濃厚に描写した作品が少なくない。
エイズの実体を人々に正しく理解させ、多くの誤解や偏見を追放し、その克服の為に必要な募金を、という目的のこのプロジェクトにコール・ポーターの名曲の数々がとりあげられたことは、しかしポーター自身がホモセクシュアルであったという事実のみが有意義なのではないことにも、気づくべきであろう。時代に先がけて多くの古い習慣的ルールに挑戦し、愛と、そしてとりわけセックスについて自由で大胆で率直な表現を試みた、というじしつにこそ注目すべきだと思う。
ネナ・チェリーとジャン・バプテイスト、モンディーノの「アイヴ・ガット・ユー・アンダー・マイ・スキン」やジャングル・ブラザーズとマーク・ペリントンの「アイ・ゲット・ア・キック」などに見られる先鋭的で過激な表現とも、ポーター・ソングが何の違和感もなく結びつくのは、その為であろう。
そして何よりもポーターの音楽の美しさ!
ネヴィル・ブラザーズがアメリカン・ジャズ・スタンダードと賞賛するコール・ポーター・ミュージックの素晴らしさは、彼らが演奏する「夜の静けさに」を耳にするだけで、もう余分な言葉は必要なくなってしまうのだ。
『レッド・ホット・アンド・ブルー』を『愛、セックスそして自由』と読み換えたら、ポーターはにやりと笑ってくれるだろうか?
ここ2年半ほどの間、「CBSドキュメント」というテレビ番組(現在TBS系で首都圏、名古屋地方、北海道に放映中)の司会を担当することによって、様々な社会問題に対する認識がかなり大きく変わってきた。エイズもその問題の一つだが、例えばこのエイズにかかった少年が学校で仲間はずれにされるレポートを見て、何となく自分の(エイズとは必ずしも関係ない)偏見や理解のなさについても反省させられているのに気づいたりもする。
「CBSドキュメント」を見る人よりきっとこの『レッド・ホット・アンド・ブルー』をアルバムとして聴くかヴィデオ版で観る人の方がかなり多いかも知れないが、ジョン・カーリンとサイモン・ウォトニー両氏の解説からもよく分かる通り、この企画の狙いが研究や治療用の金銭集めだけではなく、この中に収めてある音楽に接する一人一人のエイズに対する理解を深めるところにある訳だ。
差別をなくすのは何よりも大変なことではないだろうか。音楽のことでもそうだ。この『レッド・ホット・アンド・ブルー』のアルバムに参加している20組(ヴィデオではどういう訳かファイン・ヤング・キャンニバルスとトンプソン・トゥインズは外れている)のうち、私個人の好みでいうと好ききらいは約半々というところだ。企画者の意図は当然できる沢山の人に聴いてもらうことなので、スタイル的に間口を広げた方がいいことは誰にでも分かる。しかしそれが分かっても音だけ聴いているとなかなかつらいものがある。それは私自身の差別の現れでしかないとしてもまだまだそこまで心の広い人間にはなれない。そうなるとポピュラー・ミュージックに対する自分の感覚に相当疑わしいものも出てくるし、エイズにしても身内の誰かがかかっていないから中身のないきれいごとをはいているだけでないか、とさえ考えてしまう。
いずれにしても、アルバムで聴くよりも、このヴィデオで観た方が、一貫した制作意図が強く伝わってくる分作品としての魅力が増してくる。私の差別が治ったと言えないが、観る人の一人一人にまた別の差別がある筈なので、ここで敢えて各演奏者についてのコメントをしない。むしろあなたの好きな歌手の解釈を通じてコール・ポーターの作詞家、作曲家としての才能を感じて欲しい。1951年生まれの私はまだ辛うじて自然にラジオから流れてきた彼の曲に接することが出来た世代だが、もう今はそんな当たり前のこともだんだん難しくなってきた。特に作詞家としては、英語圏の白人ポピュラー音楽では最高級の感覚だと思う。これらの素晴らしい曲が忘れられることなく現在の色々のスタイルでいかされることはもしかすると一番意義のあることかも知れない。
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