◆「ライヴ・イン・テキサス 〜LIVE
at LONG HORNS / セックス・ピストルズ」解説
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●ビデオインナーより
●recorded at the Longhorn, Dallas Texas on January 10,
1978.
さあ、いよいよ本作の話しに突入する。セックス・ピストルズにとって、最初で最後となったアメリカ・ツアーは1978年1月5日のアトランタから始まり、6日メンフィス、8日サン・アントニオ、9日バトン・ルージュ、10日ダラス、11日タルサ、そして14日サンフランシスコで終わりと、7ヶ所で7回のライヴであった。当初、セックス・ピストルズのレコードをアメリカで配給していたワーナー・ブラザースは3ヶ月の長期ツアーを計画していたが、マネージャーのマルコム・マクラーレンの反対にあい、極めて短いツアーとなったのである。それでもワーナー・ブラザースは、ニューヨークのマジソン・スクウェアー・ガーデンでわずか1ドルという入場料で数万人を集めるライヴを主張していたが、シカゴやピッツバーグ、クリーブランドでのライヴなどは強引にブッキングまで済ませていた。既にそれらの会場のチケットは印刷まで済んでいたのである。マルコム・マクラーレンはワーナー・ブラザースにコントロールなどさせないとばかりに、セックス・ピストルズのアメリカ入国ビザ申請にメンバーの犯罪歴をしっかり記入させ、そのことによってメンバーのアメリカ入国が遅れ、上記のライヴがキャンセルされてしまった。
他のメンバーはともあれ、ジョニー・ロットンは、ニューヨークなんかでライヴをやるのはゴメンだ、どうせロクな奴がいないからなとほざいていたのである。
アメリカ・ツアー中のセックス・ピストルズのことは、アメリカやイギリスの音楽紙のリポートや後になってメンバーの回想などによって、ある程度知ることは出来たが、その全体像を知るためにはツアー・マネージャーであったノエル・モンクが語り下ろした本『12Days
On the Road the Sex Pistols and
America』(1990年刊)まで待たなければならなかった。
そこにおけるノエル・モンクの語りに依れば、いかにシド・ヴィシャスの世話が大変だったか、いかにマルコム・マクラーレンがいいかげんな男であったかなどがよく判るのである。
本映像が収められた1月10日のテキサス、ダラスについての語りで興味深いのは、イギリス人にとって(アメリカ人にとってもか)いかにダラスが危険なイメージを与えていたかである。アメリカの南部、荒くれ男が一杯。ジョン・F・ケネディが暗殺された街。そんな街だからこそマルコム・マクラーレンはダラスでセックス・ピストルズのライヴを実現させたかった。そして、彼は何か危険なことがセックス・ピストルズに起きることを期待して次のようなコピーまで考えていたという・・・「JFKを殺した街がセックス・ピストルズに襲いかかる!」
本作には1.の「拝啓EMI殿」からアンコールの「ノー・ファン」まで9曲のライヴが収められているが、実はこの日の演奏曲は全部で13曲であり、1.の前に「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」「アイ・ウォナ・ビー・ミー」「セブンティーン」ソレニ「ニューヨーク」の順に計4曲が披露されている。何故この4曲が本作に収められていないのかはよく判らない。撮影が上手くいかなかったのか、それとも他のアクシデントがあったのか。
ともあれ、ここに1978年1月10日のセックス・ピストルズがいる。シド・ヴィシャスが「カウボーイは全員ホモ野郎だ!
」と客をヤジっている。夜の11時にスタートしたライヴがどんなものだったのか。その答えは本作を見る人がそれぞれ出せばいいだろう。ライヴの途中でシド・ヴィシャスが真っ赤な鼻血を出す。ノエル・モンクに依ればシド・ヴィシャスは女性客のジョリーンに殴られた、ということだが、ジョリーンとは腕に"シド"と入れ墨をしたヘレン・キラーのことかもしれないとぼくは勝手に思ってしまう。シド・ヴィシャスはステージ上からヘレン・キラーに話しかけている場面がカメラに捉えられている。何を話しているのか・・・。
アンコールでジョニー・ロットンが深い意味を考えずナチズムのシンボル・マークがプリントされたTシャツを着て登場する。それが客に大受けする。これは南部の保守性の表れなのか。
面白くもスリリングなセックス・ピストルズの1978
年1月10日のライヴは終わった。さあ、彼らの歴史そのものが終わるまでに残されているライヴは、あと2回となった。「アメリカ・ツアーのことかい?
メンバー間のコミュニケーションは最悪だったよ。だけど、アメリカそのものは最高に面白かったぜ。・・・ジョニー・ロットン」 〜解説より一部抜粋〜
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